昭和初期の日本テニスは今では考えられないくらい強く、昭和7年ウインブルドンベスト4、昭和8年全仏・ウインブルドンベスト4、全仏のダブルスでは決勝進出の大活躍を見せながら南の海に命を断った伝説の名選手・佐藤次郎、昭和9年日本人初のウインブルドン混合ダブルス優勝をなし遂げ、日本テニス界に一大センセーションを巻き起こした三木龍喜、世界ランキング第7位にランクされた山岸二郎など、名選手が輩出しテニス人口も次第に広がっていった。 |
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このころ、昭和9年11月、田園調布に「田園テニス倶楽部」が誕生した。
田園テニス倶楽部の前身は、大正10年慶応OBのテニス同好者が大井町に2000坪の土地を借用し、テニスコート13面を作りクラブ組織とし、大正11年、広く一般に会員をつのり運営を始めた「大井クラブ」にある。この大井クラブは、名選手・佐藤次郎などもプレーしていたと伝えられているので、当時かなりの名門であったに違いない。
やがて昭和9年、大井クラブに対して目黒蒲田電鉄(現東京急行電鉄)から次のような要請があった。それは、目黒蒲田電鉄(現東京急行電鉄)では、田園調布の元野球場跡地(野球グランドがいつごろ潰されたかは定かでない)と周辺の土地約6000坪を使ってテニスコートを作ることになったので、大井クラブの会員全員が移って来てテニスクラブをやってくれないか、という内容であった。コート22面、クラブハウス及び付帯設備一切で賃借料年額6,000円也、の条件である。(もちろん田園コロシアムスタンドはまだなかった) |
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スタート当時の田園テニス倶楽部は、会員定員400名、会費月5円、約2,000円程度の収入で毎月運営され、この中でコート係数名を置き、コートの手入れ、ローラーかけ、ライン引き、場内の掃除・整頓、冬期朝夕のムシロかけ・はがし、毎年春にはコートの土起こしを行い荒木田土を入れるなどの作業を行っていたので、維持費はかかっていたと考えられるが、ロビー兼食堂、会議室、事務室、ロッカールーム、浴室、トイレの他、メインコートに面してテラスが設けられており、東京のテニスクラブとしてはかなり設備の整ったものだった。
田園調布という環境と田園テニス倶楽部という充実したクラブの存在があって、田園調布とテニスに関するプレステージはかなり高くなっていただろう。 |
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